猛暑だった2018年の夏。「今年はあまり蚊に刺されなかった」という人も多いのではないだろうか。地球温暖化による影響で厳しい夏が続く昨今、気温35度を超す環境は蚊にとっても過ごしにくいらしい。その代わり、秋になると、それまで静かにしていた蚊が大量発生し、活発に動き出すという。
そんな蚊やゴキブリの生態を知り尽くす女性が、虫ケア用品メーカー最大手のアース製薬にいる。商品開発や生態研究に必要な実験用害虫を育て管理する飼育員、有吉立課長だ。18年7月、20年間の飼育員生活で蓄積した害虫の生態をまとめた書籍「きらいになれない害虫図鑑」(幻冬舎)を出版。「害虫でも、その生態を知れば怖くない」と話す。
60万匹がすむゴキブリ部屋の実態
赤穂義士で知られる兵庫県の赤穂市。カキの養殖で有名な坂越湾を望む海辺の町に、アース製薬の坂越工場と研究所がある。かつては本社があった同社の発祥地。主力工場では、全社売上げの6割近くを占める虫ケア用品の生産を担う。ロングセラー商品「ごきぶりホイホイ」の国内販売分は、すべて同工場で製造されているという。
生物研究棟の2階にあるのが「生物飼育エリア」。同社研究開発本部生物研究課に所属する飼育員、有吉課長の職場だ。飼育室には、国内外に生息するゴキブリやアリ、ハエ、蚊、ネズミなどの害虫が約100種類。ゴキブリは100万匹、蚊とハエで10万匹、ダニ1億匹など。規模が大きく、害虫研究施設としては他に類をみない。
なかでも見学者の度肝を抜くのが、60万匹のワモンゴキブリを放し飼いにしている「ゴキブリ部屋」だ。6畳ほどのスペースには、紙管が何百本も敷き詰められ、室内が焦げ茶色になるほど大量のゴキブリがうごめいている。
入社2年目で、有吉課長はゴキブリの担当になった。
「最初の仕事はこの部屋の掃除でした。ほうきとちりとりを持って入り、ゴキブリの糞を掃除したり、窓ガラスを拭いたあと、水とエサを交換します。エサはペットフードのようなもの。紙の筒をたくさん置いているのは、暗くて狭い場所が好きなゴキブリの習性を考えてのことです。まったく何もなければ、ゴキブリもストレスを感じてしまいます。プラスチックケースの中で飼育しているゴキブリも多くいて、蛇腹に折った厚紙で作ったシェルターがあり、床替えをしてきれいにするのが仕事です。マスクと手袋をしてやるのですが、手にのぼってきたり、ダッシュで動いたりするとやっぱり怖かったですね。この仕事を1年近くやっていました」(有吉課長)
ただでさえ不潔なイメージで不快このうえないゴキブリが大量にすむ部屋。実際に目の当たりにすると絶句するしかないのだが、有吉課長は「仕事だから…」と割り切っていたという。
住環境の変化に合わせてマダニも飼育
飼育室は1年中、気温25度、湿度40~60%の状態が維持されていて、害虫が繁殖しやすい環境にある。しかも、エサの中身も管理されていて、飼育員が勝手にエサを変更することはない。害虫にも嗜好性があり、研究開発においては環境などの条件を安易に変えないことが重要だからだ。
「10年前と同じ条件で飼育しなければ、研究する意味がなくなります。試験用の害虫を飼育管理するということは、常に同じ状態、大きさの虫を用意しておく必要があるのです。飼育員の仕事は、研究所の実験担当者からの注文に応えて、必要な種類の害虫を必要な数だけ期限内に準備すること。例えば、蚊の幼虫のぼうふらの期間は7日間ほどなので、月曜に卵を集めて、翌週の月曜日にさなぎになるようにタイミングを図って計画的に育てています。ゴキブリ殺虫剤の研究では、効率を考えて体重の重いメスだけを使うのですが、メスだけ100匹欲しいと注文がくれば、ピンセットで一匹一匹拾っていきます。これが結構大変なんです」
害虫の飼育方法はこれまで確立されておらず、一から育てることでノウハウを蓄積し、システム化してきた。有吉課長が入社した当時、30種類しかいなかった害虫もいまでは100種類に増加。殺虫剤の効果・効能を記載するために、それまでいなかった害虫の飼育も頼まれるようになった。
「一般の人の虫に対する感覚も20年前からは大きく変わっています。最近は、ちょっとした虫でも駆除したいという要望が多く、アリやナメクジなど対象となる害虫が広がっています。住宅環境も変わり、高気密性のマンションなどではダニが増える可能性が高い。そこで、7年ほど前にマダニを飼い始め、4年前にはシラミ、2年前からツツガムシを飼育しています」
「正しく怖がり、賢く嫌うことが大切」
有吉課長が飼育員になったきっかけは、新聞の求人広告。いまから20年前のことだ。東京の美術学校を卒業後、帰郷。家具店などで働いたが、地元の優良企業の正社員になれるという理由だけで応募し、採用されることになった。
しかし、もともと虫は大の苦手。ゴキブリが出ると大慌てで家族を呼び、蚊をたたくのも嫌だった。飼育室での初日の仕事は、バットの中に入れられたハエの幼虫をスプーンですくって移し変えることだった。あるとき、大量のハエを熱湯で処分したのを目にしてから、その姿に似たレーズンをしばらく食べられなくなった。
とはいえ、人間の慣れとは恐ろしいもので、虫嫌いは変わらないものの、仕事にはすぐ慣れた。ハエの担当から始まり蚊、ゴキブリのほか、ネズミも担当。昔、蚊を担当していたときは、120個もあるバットから蚊のさなぎを茶こしで取り出してカップに入れてケージに移し替える作業を1人でやっていた。放っておくと羽化して部屋中が蚊だらけなるのでぼんやりしてはいられなかった。
そして、害虫を飼育するうちにその生態を知り、いつのまにか恐怖心や偏見はなくなっていったという。
「例えば、ゴキブリは人間を襲わないし、逆に人間を怖がっています。ゴキブリ部屋に入ると一斉に逃げ出します。もし、襲ってくるように見えるとしたら、それはパニックになっているのでは。ゴキブリは飛行するのも下手だし、触覚だけが頼りで視力もかなり悪い。ゴキブリのお尻のほうについている尾毛で空気の動きを敏感に感じとっているので、捕獲するなら、後ろよりも前からのほうがつかまえやすいといわれています。ただ、害虫は家の中に病原菌を運んだり、アレルギーの原因になったりするのがやっかいなんです。害虫の生態をまず知ることから始め、正しく怖がり、賢く嫌うことが大切だと思います」
害虫飼育員になって20年、虫の生態を知り尽くし、その造形美にも魅せられるようになった有吉課長。「生態系のなかで害虫にも役割があるのでむやみに殺すことはない」と言いつつ、虫嫌いであることには変わりない。害虫飼育では虫を殺すこともあるため、虫好きには向いていないという。
ただ「好きじゃないけど、嫌いじゃない」(有吉課長)。その言葉からは、虫への愛着というよりも、害虫飼育という仕事への使命感ややりがいが伝わってきた。
(文/橋長初代)