『哲子の部屋』『ブレイブ 勇敢なる者「硬骨エンジニア」』など、独自の切り口のテレビ番組を企画・制作するNHKエデュケーショナルの佐々木健一氏が展開するコンテンツ論の第39回。

 かつてNHKで多くの名作ドキュメンタリーを世に送り出した大先輩で、私にとっては“師匠”とも言うべき存在のYさんが、最近のドキュメンタリー番組についてこんな苦言を呈していた。

「近ごろ、どんな番組でもやたらと“密着”を強調するようになった。俺たちの時代には、決してそんなことは言わなかった」

 確かに番組表を見ると、「○○に独占密着!」といった文言があちこちに躍っている。なぜ、その言葉に嫌悪感を抱くのか、ピンとこない人がほとんどだろう。

 一般の人に限らず、制作者の多くも「密着すれば、普段は見られないものが撮影でき、人間をより深く描ける」「密着することによって、何かが起きる瞬間を撮影できる」と捉えている。しかし、果たしてそれは本当だろうか? 私自身も密着を礼賛する昨今の傾向には疑いの目を向けている。

 大先輩がまだ若手のころ、フィルム時代のドキュメンタリーは、1つのロールでわずか数分程度しか記録できないという条件の中、優れた作品を数多く残してきた。その後、フィルムからテープへ移行し、撮影機材の進化と共に現在はデジタルデータで映像と音声を記録するようになった。

 その結果、手軽に長時間撮影が可能となり、好きなだけカメラを回せるようになったので、その分、昔よりもはるかに面白いドキュメンタリー番組がたくさん作られるようになった……と言いたいところだが、現状はそうとは言い難い。各局のドキュメンタリー枠は激減し、昔に比べてジャンルの存在感も失われている。

 たくさん撮っても、必ずしも面白い作品が生まれるとは限らない。また、撮影条件が厳しかったころよりもドキュメンタリーというジャンルの勢いが失われているのはなぜなのか? そこには、「密着すれば人間が描ける、何かが起きる」という“盲信”が関係しているようにも思う。

 実際、来る日も来る日も被写体にカメラを向けて付いて回り、その様子を漫然と撮影しても、そこにはただ“日常”があるだけで、特別な出来事はほぼ起きない。自分の人生を振り返っても、仰天するような事件やハプニングはごくまれにしか起こらないものだろう。

   前回のコラム(ドキュメンタリーにも必ず『演出』はある)でも述べた通り、作り手がしっかりと狙いを定め、“状況設定”を整えて撮影に臨むことで、そうした日常の中にもドラマやストーリーが見いだされるのだ。ただ遮二無二、獲物を追いかけ、めったやたらと銃を撃っても獲物が捕らえられないのと同様だ。

 事件や緊急事態が頻発するような状況がすでにある現場と違い、通常の撮影現場にはいたって穏やかな日常の時間が流れている。だからこそ、何かが起こりそうな時期やタイミングを狙って撮影に臨む。あるいは、何かが起こりそうな状況設定を整えた上でカメラを回し、記録するのだ。わずか数分程度しか記録できないフィルム時代のドキュメンタリーは、まさにそうした作り手の“演出力”が問われていたのである。

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