『哲子の部屋』『ブレイブ 勇敢なる者「硬骨エンジニア」』など、独自の切り口のテレビ番組を企画・制作するNHKエデュケーショナルの佐々木健一氏が展開するコンテンツ論の第37回。

 先日、とある番組評論の記事の中で、こんな文章を見つけた。

 「ドキュメンタリーは一般的に『仕掛け』をしない。仕掛けをするとヤラセになってしまう。つまり、撮影対象の人間に対して『他人の作為』が介在しないのがドキュメンタリーだということができるだろう」

 この一文を読んだ私は、「なんとも誤解を呼ぶ言い方だなぁ」と感じた。私の周りの同業者も同様の反応だった。もちろん、ヤラセは許されない。だから、一般の方はこの文章を一読しても、何も違和感を覚えないかもしれない。むしろ、

 「そういうものでしょう。“ありのままの現実”を捉えるのがドキュメンタリーなんだから」

 と思うかもしれない。こうしたドキュメンタリーに対する“ありのまま幻想”とでもいうべき認識は根深く存在する。だが、ドキュメンタリーであっても、「他人(作り手)の作為が介在しない」などということはあり得ないのだ。まずは、この初歩的で、根本的な誤解を解かなければならない。

 ある現場で何かを撮影する場合も、ディレクターやカメラマンの“主観的”視点によって現実が切り取られる。ドキュメンタリー映画の世界的巨匠、フレデリック・ワイズマンも、次のように述べている。

「(ドキュメンタリー)映画には劇的なシークエンスや構造がなくてはいけません。だから、そうですね、ドラマを探しています。しかし、殴り合う人や、撃ち合う人を探しているというわけでもないのです。日常的な体験の中にもたくさんドラマがありますからね」(『ドキュメンタリー・ストーリーテリング「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』(シーラ・カーラン・バーナード著/島内哲朗訳/フィルムアート社)