オーディオ・カセットに合わせたい

 ゲーム・ソフトを収めるROMカセットの仕様を中心になって決めたのは中川である。外形寸法の最初の目標はオーディオ・カセットだった。ROMカセットをオーディオ・カセット用ケースに入れることを想定したという。ところが、カセット内の基板に余裕をもたせることができず、結局はひと回り大きくなってしまった。

 ROMカセット関連の開発で特に慎重に進めたのは基板の接続端子と本体のコネクタ部だった。接触不良や摩耗など、業務用ゲーム機で悩まされていたのも基板のコネクタ回りだったからである。

 中川は、既存のコネクタではなく、専用品を開発しようと決断し、部品メーカに話をもちかけた。CPUと画像用プロセサのアドレスとデータ・バスを全部出すために60ピンのコネクタを設計することになった。挿抜試験には特に力を入れた。目標挿抜回数を5000回に設定し、機械試験ではなく、開発スタッフが手で抜き差しした。とにかくコネクタがこわれやすいと考えて徹底的に検討したと中川は言う。

ファミリーコンピュータと名付ける

 こうして1983年春には、本体の外観やコントローラ、ROMカセットなど、製品の全体像がはっきりしてくる。ガメコム(GAMECOM)という開発コード名で呼ばれたゲーム機にファミリーコンピュータという名が付けられたのはこのころである。

 名付け親は上村の妻だった。1983年4月ころ、上村は家庭でガメコムの話題を出した。そのとき上村の妻が次のように言った。「ホーム・コンピュータでもパーソナル・コンピュータでもない家庭用コンピュータなら、ファミリーコンピュータかもしれない。しかも、パーソナル・コンピュータを略してパソコンというのだからファミコンという愛称がいい」。この一言がきっかけになった。製品化までには他にもいくつか名称の候補は上がったが、製品の性格をよく表しているということでファミリーコンピュータが生き残った。

 ただし、社長の山内溥はファミコンという略称のほうは気に入らなかったという。「ゲーム・センタを略してゲーセンと呼ぶ感覚が好きではなかったようだ」(上村)。ファミコンという略称の商標権は、のちにシャープが取得した。

 社長の山内は、本体の色にもこだわった。上村が社長と車で同行したときのことである。名神高速道路の西宮インターチェンジを降りたところで、あの色がいいといって山内が指さした。その先にはアンテナ・メーカのDXアンテナの赤い看板が立っていた。

 その翌日、社長は自分のマフラを上村の席まで持ってきて、この色がいいともちかけた。ファミコン本体の色の候補は、それまでに白と黒の組み合わせ、黒一色、青などさまざな案があったが、山内の意見通り、本体は赤を基調とすることに決まった。