仕事にあぶれ、必死でネタ探し

 任天堂の業務用ゲーム機事業は、ドンキーコングのおかげでなんとかもちこたえたものの、それ以降は縮小していく。ちょうどそのころ、ゲーム&ウォッチが任天堂の屋台骨を支える大ヒット商品に成長していた。十字ボタンを備えるゲーム&ウォッチ版のドンキーコングも登場した。

 社内には、ゲーム&ウォッチが花札やトランプのようにずっと主力商品であり続けるという見方もあった。当時のゲーム&ウォッチにはそれだけの勢いがあったのである。

 ゲーム&ウォッチの開発で人手が必要な開発第一部への異動などで、上村の開発第二部の人員は減っていた。失意のなかにあった上村は、なんとか次の仕事のネタを探そうと必死だった。

 社長の山内は、「遊んでいる社員が1人や2人いても会社はつぶれないから心配するな」とゲーム&ウォッチを開発する以前に岡田に言ったことがある。岡田は言葉通りにのんびりすごしたが、上村はなにか仕事をしていないと落ちつかなかったという。

 上村が目を付けたのは米国で再びブームになろうとしていた家庭用テレビ・ゲーム機だった。任天堂はブロック崩しを最後に撤退していた。

 家庭用ゲーム機を復活させたい。ドンキーコングをそのまま家庭で遊ぶことができるゲーム機を開発したい。上村の頭のなかには、ファミリーコンピュータ(ファミコン)の姿がおぼろげながら描かれていた。

ガメコム・プロジェクト始動

 同じころ、社長の山内も付き合いの深い玩具店などから話を聞いて家庭用ゲーム機のビジネスに興味を抱いていた。社長が上村に家庭用ゲーム機開発の話を持ちかけたのは1981年10月のことである。山内もゲーム&ウォッチはやがてすたれ、次世代の商品が必要になることを感じとっていた。

 上村はさっそく、開発第二部に残っていた若手の技術者に実現の可能性を探らせる。その若手技術者の1人が中川克也(現、開発第二部課長)である。

 中川は1979年に任天堂に入社した。同社の宇治工場で保守などの業務を担当し、しばらくして開発第二部に配属になった。レーダースコープやドンキーコングのハードウエアを担当した。

 中川は任天堂への就職面接で、「個人の発想や着想を正当に評価して欲しい」と堂々と主張した個性派である。面接に立ち会った上村は、風呂場で歌うカラオケ・セットを趣味で作ったという中川をぜひ採用したいと思った。

 上村の推薦もあり、任天堂に入社した中川はファミコンやスーパーファミコンの開発を通して、上村のパートナとして力を発揮する。家庭用ゲーム機が実現可能か否かを探る仕事は中川にとってファミコン開発に携わる最初の作業となった。

 中川が出した結論は、業務用ゲーム機のドンキーコングの回路をもとにIC化すれば、家庭用ゲーム機が実現できそうだというものだった。1982年春、いよいよ具体的な開発プロジェクトが立ち上がる。開発するゲーム機のコード・ネームはガメコム(GAMECOM)と命名された。

 上村のグループが技術重視で開発したレーダースコープ、そのハードウエアを救うために考案されたドンキーコングというゲーム・アイデア、そのドンキーコングをゲーム&ウォッチで遊ぶために開発した十字ボタン。ファミコンを実現するための要素はすでにそろっていた。

 当初数名でスタートしたガメコム・プロジェクトからファミコンが生まれるのはそれから約1年後である。

(文/高野 雅晴)

(※本記事は「日経エレクトロニクス」1994年9月12日号の「ファミコン開発物語」を再掲載したものです。登場人物の肩書きおよび企業名等は、雑誌掲載当時のものとさせていただきます。あらかじめご了承ください)

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