初代通天閣界隈は一大レジャーランド

 初代通天閣は1912(明治45)年に誕生。大阪で第5回内国勧業博覧会が開催され、その跡地を利用し、娯楽の楽園を作ったのが始まりだ。「ルナパーク」と名付けられたその一大娯楽園は、メリーゴーランドや芝居小屋、庭園などが建ち並び、4人乗りの赤いロープウェイまであった。そのルナパークへの入り口に建てられたのが通天閣だ。

 初代通天閣はパリのエッフェル塔と凱旋門をモデルに設計された。新世界はルナパークと通天閣を中心に発展。しかしルナパークは11年後に閉園。新世界はその後、一大歓楽街として繁栄し、第二次世界大戦前まで大勢の人で賑わった。ところが、戦時中の1943年、足元の映画館が火事になり、通天閣にも延焼する。初代通天閣はこうして新世界から姿を消した。

 2代目通天閣は1956年10月28日に開業。開業と同時に入場者が殺到し、1カ月後には20万人を達成。翌年は155万人以上が来場し、「なにわのシンボル」となった。しかしブームが去ると、入場者数は年々減少。大阪万博が行われた1970年に再び100万人を突破したが、翌年から激減。1975年には20万人を切るまで落ち込んだ。

 この時期、東京タワーや名古屋テレビ塔も厳しい経営環境にあったが、電波塔としてテレビ局からの安定した収入に支えられた。一方、通天閣は電波塔ではなく観光収入に頼っていたため、入場者の激減はそのまま経営を直撃した。

 1976年に経営陣を刷新した後も低迷は続いたが、さまざまな集客策が図られる。新世界ではおなじみの将棋大会やビリケンさんの復活、天気予報表示装置の設置、映画の完成記念式典など、地道なPR活動が奏功し、入場者数は徐々に回復した。

 1996年には、NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の舞台となり、人気が再燃。翌年、新世界に、大浴場を併設した屋内型遊園地「フェスティバルゲート」(現在は廃園)が開業したことで町に若者が増え、通天閣の入場者数も80万人を突破した。

パリのエッフェル塔と凱旋門を模倣した初代通天閣
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初代通天閣は戦時中の火災で崩壊し、鉄くずとなって国に供出された
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