世界遺産に自分の文字を刻む、といっても、もちろん落書きをするわけじゃない。漫画家、井上雄彦が、世界遺産サグラダ・ファミリアの扉に刻む文字を書いた、という話だ。

 絵ならわかるが、「なんで文字?」「どうしてサグラダ・ファミリア?」と、思う人も多いだろう。なにせその世界的な話は、偶然の出会いから生まれたハプニングなのだから。

 そのいきさつを話すには、半年ばかり時をさかのぼらなくてはならない。

 井上氏がバルセロナに到着したのは、2011年5月28日の夕刻のことだった。彼に同行したのは、編集者とカメラマンの筆者。たまたまその夜は、FCバルセロナとマンチェスター・ユナイテッドがチャンピオンズ・リーグの優勝をかけた決戦のとき。天才メッシらの活躍でFCバルセロナが勝利すると、街を上げての大騒ぎが始まった。

 井上氏は優勝を祝う群衆であふれ返るバルセロナの中心街、グラシア通りを歩きながら、街と人を終始、笑顔で見つめていた。時折、携帯端末のカメラで撮影していたが、何を感じていたのだろう。ガウディの代表作「カサ・ミラ」の前でカメラ撮影に応じてくれた井上氏は、こう言った。

 「20年前にこの建物を見たときは異様だとしか感じなかったけど、今夜はすごく自然に見える」

地中海のうねりを思わせる「カサ・ミラ」の前に立つ井上氏
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建築家ガウディの足跡を訪ねる取材の旅

 井上氏がバルセロナを訪れた目的は、「ガウディの足跡を追い創造の源泉を探る」取材のためだ。その日程は6日間。初日はガウディの代表作を訪問し、次の2日間はガウディゆかりの地を巡り、1日休憩をはさんで、残りの2日間は、ガウディに関係の深い人たちにインタビューする。

 案内人として、バルセロナ在住のガウディ研究家、田中裕也氏が現地で合流。足はチャーターしたタクシー1台。男ばかりの取材旅行が始まった。

 1日目、最初の訪問先は、口を大きくあけた龍の門で有名な「グエル別邸」。「ガウディのテーマは装飾である」という案内人の言葉が、野外講義の始まりだった。そこから、ガウディの代表作といわれる「コロニア・グエル教会」、処女作「カサ・ビセンス」、130年以上建設が続いている「サグラダ・ファミリア」、そして山の手にある市民の憩いの場「グエル公園」へ。移動の疲れよりも、ガウディの本質に迫る野外講義の濃さに、「頭がパンクしそうになった」と、後に井上氏は語っていた。確かに、このときの彼の表情は、ちょっと困惑気味だった。

「グエル別邸」前で案内人から野外講義を受ける
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「コロニア・グエル教会」で複雑な表情を見せる
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