80年代後半から注目されたミニシアター

 ミニシアターが注目されるようになったのは、1980年代後半からだ。その先駆けは、81年に新宿・歌舞伎町にオープンし、現在も運営されているシネマスクエアとうきゅうだとされる。その後、渋谷地区にユーロスペースやシネセゾン渋谷、そしてシネマライズなどが続々とオープンしていく。80年代から90年代にかけて、DCブランドブームや渋谷系音楽で若者文化を牽引した渋谷にとって、ミニシアターも街の文化的特性を強くアピールするものであった。89年には、東急がBunkamuraをオープンしたが、そこには現在も続くミニシアター、ル・シネマが併設されている。この当時、ミニシアターでのヒットが話題となったのは、『ベルリン 天使の詩』や『ニュー・シネマ・パラダイス』、『ポンヌフの恋人』などだ。これらは、30~40週もの期間、単館でロングランをした。

 当時の日本はバブル経済のまっ最中だったが、それとは逆に映画業界は縮小の一途をたどっていた。観客動員は、87年から1億4000万人台となり、96年には日本の人口を下回る1億1957万人にまで落ち込んだ。しかし、この映画低迷期こそがミニシアターの全盛期だったのである。

 その背景にあるのは、円高好景気とビデオ市場の拡大だ。円高によって外国映画の買い付け金額は安くなり、同時にビデオ市場が安定して興行以外での売り上げを確保できるようになっていた。これによって、外国映画を安く買い、予算を抑えて宣伝をし、ミニシアターで長く売り、さらにビデオを売る、という流れのビジネススキームが安定するようになった。ミニシアターでかかる映画はローリスク・ローリターン、いわばニッチなビジネスだったのである。

 この時代にミニシアターが注目されたのは、日本映画の低迷という負の側面もあるが、大手映画会社が運営する劇場よりも設備面で優れていた面もある。シネマスクエアとうきゅうは前後の座席間が広く、シネマライズは当時では珍しく段差があった。これらの設備的な充実もミニシアター人気を支えた要因だった。

 しかし、2000年代に入ると、この状況が崩れてくる。ターニングポイントとなったのは、2000年代前半から見られるようになった、「単館拡大」と呼ばれるスキームだ。これは、最初は少数の映画館で公開し、徐々に他の劇場にも拡げていく手法だ。韓国映画の『シュリ』(2000年公開)やフランス映画の『アメリ』(2002年公開)、日本映画では『ウォーターボーイズ』(2001年公開)や『ピンポン』(2002年公開)などが、この方法によって大ヒットとなった。単館拡大が可能となったのは、90年代後半からシネコンが急激に増えたからだ。シネコンも、スクリーンを埋めるためにたくさんの作品が必要だった。

 配給会社が、単館拡大で大きなヒットを狙う必要もあった。2000年代に入り、外国映画の買い付け金額が高騰したからだ。よって、90年代なら全国10スクリーンほどで順次公開していたようなタイプの映画でも、2000年代には全国50~100スクリーンで公開し、ヒットを狙うようになる。そこには、高額の買い付け金額を短期間で回収したい配給側と、フレキシブルな番組編成によって効率的に売上を求めるシネコン側との共犯的な関係が生じていた。

 しかし、こうした単館拡大は、「特定の映画館でしか観られない」というミニシアターの独自性を大きく損なった。観客には、劇場の選択肢ができてしまったのだから、それも当然だ。しかもその選択肢がシネコンという点も、ミニシアターにとっては逆風だった。90年代中期までは、設備でも人気のあったミニシアターだったが、シネコンは段差のあるスタジアムシートなどによって、ミニシアターをはるかに超える満足度を観客にもたらした。ミニシアターは、ハード面で相対的に劣るようになってしまったのだ。