三菱重工業、三菱航空機などが開発を進めている小型旅客機「MRJ(Mitsubishi Regional Jet)」の1号機が2014年10月18日にロールアウト(生産段階の飛行機が工場から搬出されること)した。各種試験に使用する4号機までの組み立て作業がすでに進んでおり、今年4月~6月に初飛行の予定だ。

JALグループが導入を決めているMRJ(日本航空と三菱航空機のプレスリリースから)

 MRJは日本としては1962年に初飛行した「YS-11」以来、実に半世紀ぶりの国産旅客機だ。これほどまでに国産旅客機を開発する間隔が空いてしまった背景には、YS-11の販売がうまくいかず、赤字を出して合計182機で生産を終了してしまったという失敗があった。

 では、いったいなぜ、YS-11は失敗したのだろうか。

軍用機的な発想で設計された旅客機?

 1945年、太平洋戦争の敗戦と共に、日本は米国に占領され、航空機の研究も開発も運用も一切禁止された。7年後の1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効で、日本は独立を取り戻し、航空機開発、運用の制限もなくなった。しかしこの間に世界の航空機技術はプロペラ機からジェット機へと長足の進歩を遂げており、一切の研究開発を禁止されていた日本の航空機技術は大きく立ち遅れてしまった。

 その状況下で、1956年に当時の通産省・航空機武器課の課長だった赤澤璋一氏は、国産旅客機開発計画を立ち上げ、YS-11の開発が始まった。1959年には、機体開発と製造を担当する官民出資の特殊法人である日本航空機製造株式会社が設立され、日本の航空関連メーカーのほぼすべてが参加する一大国家プロジェクトとなった。

 1962年8月30日、YS-11の1号機が初飛行した。最初は操縦性に問題があったために、改修に時間がかかり量産機の納入と民間航空路での運用開始は、1965年4月からとなった。

 ところが6年後の1971年4月、赤字がかさみ、黒字転換は無理と判断されたためにYS-11の生産打ち切りが決まる。その後、1981年12月には日本航空機製造の解散が閣議決定され、1983年3月に日本航空機製造は解散した。

 YS-11の生産中止と日本航空機製造の解散にあたっては、かなり複雑な政治的経緯がある。が、その根本には、「旅客機を作るということはどういうことか」を当時の日本が理解していなかったという事情が存在した。

 YS-11の開発にあたっては、太平洋戦争の時に軍用機を開発した設計者たちが集まった。彼らは高性能の軍用機を開発した経験は豊富だったが、実用的な旅客機を開発したことはなかった。このため、YS-11の設計のそこここに軍用機的な発想が持ち込まれてしまった。