使い手の「創造する力」を喚起し続けるものをつくりたい

――床のカーブはいわば大地に合わせているものですよね。一方で、リビングルームのようなプライベート性、快適性を追い求めている。スケールの違う両方を一緒に扱うときに、どういう考え方で臨んでいるのですか?

西沢:話を広げると、草原とか砂漠、都市は確かに大きなものです。でも、僕らの生活からすれば、都市も部屋も家具もスケールの大小は違っても、どれも一緒に考えるべきものだと思います。

 バーゼルにライン川が流れていて子供が泳いだりしていますが、川ってすごく巨大で、僕らの身体寸法には見合わない。富士山なんかもそうですけれど、それらは超越的な存在で僕らの身体感覚を超えた巨大さがある。でもたまにそこに出かけていくと、快適だし気持ちが解放されたりする。川や山、都市といった大きなスケールのものが持つ「超越性」が逆に我々の生というものになにか豊かさと潤いを与えている気がするんです。我々の生活は、狭い刑務所のような部屋のなかでは完結し得ないものです。やはりたまに広い場所に出て行って大きな川の流れを見て、山を見て、「自分ではいかんともしがたい大きなもの」の存在を感じる。一方、自宅では小さな空間で寝起きしたり、身近なもののなかで過ごしたりする。そうやって、いろんなスケールのものとの触れ合いを通してこそ、豊かな生がつくられていくのではないかと思います。

 建築や都市はサイズ的に大きいだけではなく、時間的にも大きいものですよね。僕らの人生よりもはるかに大きく長い。都市は僕らの時代のためだけに存在しているものではなく、それこそ江戸時代の人々も使ってきたし、未来の人間も使っていく、そういう大きなものです。我々の今日の必要性や利便性のためだけにできてはいない。そういった現代的な価値観だけではつくられていないところが都市のすばらしさです。我々がそういうところに住んでいるということがすばらしい。それは建築や都市というものを学んできて、すごく面白いと思っていることの一つですね。

――そのような長大なスケールのなかで、誰もが快適に感じる新しいものをつくるのは大変なことですね……。

西沢:難しいですよねぇ……。でも、それは公共空間を考えるうえで避けることができないことです。建築をつくるということは原理的に新しいものに向かう面があるんです。建ててから100年使い続けるということは、「未来の100年のためにつくる」ということです。だから建築には「これからどのような未来を生きていきたいか」という我々の考え方みたいなものが表れるんです。

 また、新しいということはつくる場面だけのことじゃなくて、使う場面にも関係が深い。住宅に「住む」といっても、50年前といまとでは全く内容が違います。家族構成や家族のあり方自体も違うし、食べているもの、使っている道具、生活パターンも違う。いまの時代の人が昔の家に住んだら、必ず当時とは違う新しい住まい方をしますよね。だから、住むこと自体が創造的なことなんです。

 そう考えると設計にはキャッチボール的なところがあります。建築をつくると、その次に「使う」という次の創造が待っている。つくる創造と使う創造の2つの創造同士のやり取りがあるんですよ。だから使う側が活力を持って、大きな興味を失わずに建築を使い続けてくれないと駄目なんです。僕は、そういうことを喚起するような建築をつくりたいと思っています。

軽井沢千住博美術館では床と天井(屋根)でそれぞれカーブの仕方が異なり、西沢氏としては初めて臨む空間のつくり方になった。自然に過ごせる場所となるように設計中は模型をつくり続け、西沢氏が目で確認しながら調整を指示する作業を入念に繰り返している(写真:阿野太一)
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――西沢さんにとっては、どういう場所が好き、あるいは快適なのですか?

西沢:心地よいという意味では、一番繰り返し使うところですよね。自分の家や、よく歩く通りは心地よいと思います。でも、富士山とか皇居とか、たまに行きたいところにもそれはありますね。そう、いつも行く蕎麦(そば)屋も好きです。

――お蕎麦が好きなんですか?

西沢:そうなんです。僕は外国に住めないなと思う唯一の理由を挙げるとすれば、蕎麦です(笑)。蕎麦屋の雰囲気も好きです。味だけではなくて、出るタイミングとか店主の体調とかにも関係するものだし、環境もありますし、それこそローカルなものだと思います。

――「繰り返し」と言っても、使いすぎると逆に愛着がなくなってくることもありますよね?

西沢:そうですね、飽きるっていうこともある。繰り返し使うって、そういうことをはっきりさせるんですよね。何度使っても好きか、もしくはそうでないかということを。だからこそ都市、街というのは尊いのです。皆が何百年も繰り返し使ってきて、なお残っているものです。数年使ってみたら飽きてしまいました、というものではないですから。まぁ僕の場合、蕎麦は決して飽きないでしょうね(笑)。でも、そういうことがあるのは、おっしゃるとおりです。