1月に第146回芥川賞を受賞し、受賞会見での尊大とも緊張とも照れ隠しとも取れる独特の受け答えで時の人となった田中慎弥。正社員はおろかアルバイトとしての就労体験もなく、20歳ごろから毎日鉛筆で小説を書き続けてきたという特異な生活ぶりでも注目を集めた。受賞作『共喰い』は、発売2週間にして6刷、20万部発行と絶好調。芥川賞受賞作であっても10万部売れれば大ヒットといわれる純文学界で異例の数字といえる。

 昭和63年を舞台に、瀬戸内海と思われる海に面した小さな町に住まう高校生を主人公に描かれる。浮遊物と生活排水で彩られた小さな川沿いに、実の父とその愛人と3人で暮らす17歳の遠馬。近所に住み、魚屋を営む実の母とも日常的な交流がある。性に目覚めた遠馬には親しい女友達もいる。実の母や2番目の母、父のさらなる愛人などの間を行き来する日々がつづられていく。

 冒頭から川の薄汚い描写が延々と続き、テンポよく展開するエンタテインメント小説やビジネス書を読み慣れた人は、なかなか前進しようとしない物語にイライラするかもしれない。だがじっと文字を追い続けていけば、その細かすぎるまでの描写の積み重ねによって、主人公の生きる空間が読者の鼻先に如実に再現されていることに気づくことになる。川のにおいや釣り餌の手触り、魚のうろこやウナギのぬめりといった感覚が文面から立ち上ってくるのだ。

 主人公の思考についても同様で、小難しい思索は一切描かれない。なんでもないようなささいなひっかかり、ゆえんのはっきりせぬ小さな苛立ち。そういった細やかな情景を重ねていくことで、主人公が(特に暴力的な性行為を通じて)父との血のつながりや自身の有り方について抱く深い葛藤を浮き彫りにしていく。

 芥川賞選考委員の代表として会見に応じた黒井千次は田中の文章を「粘り気がある」と表現し、「ひとつひとつの描写が非常に正確におさえて対象を描き出している。そこから呼び覚まされるイメージは、非常にハードで硬質」と称賛した。

 終盤で家族の在り方を根底から覆すような大事件が起きても、その描かれ方は淡々としたまま。いささかもドラマチックさのない落ち着いた筆運びが、読者の胸に事件の重みとリアルさをより一層感じさせる。

 純文学のイメージにありがちな格調高い文章ではなく、平易な文体と分かりやすい構図で描かれた『共喰い』。田中が実現したのは、純文学の深い読み応えとエンタテインメント小説に見られるような高い物語性の融合だ。『共喰い』には、受賞作のほかに第144回芥川賞の候補作『第三紀層の魚』を収録。同じく川沿いの町を舞台に、小学生の主人公が人の生と死に触れる様が描かれる。これまで芥川賞作品に挑戦して敗れてきた人、純文学のイメージに敬遠してきた人でも、純文学の味わいを堪能できる2作だ。