「演劇は時代を映す鏡」とはあまりに使い古された表現。しかし今回、野田秀樹による10年ぶりの『キル』再演を目の当たりにして、まさしくこの言葉が観劇後の自分を直撃したため、陳腐なのは承知なうえでここから文章を始めようと思う。

 演出家・野田秀樹が作・演出を手がける『キル』は、94年初演、97年再演を経て、今回、妻夫木聡広末涼子という新たな主役で3度目の上演を迎えた。過去の公演もすべて絶賛された文句なしの傑作。とくに堤真一が過去2度ふんした主人公テムジン(モンゴルの英雄ジンギスカンの幼名)は、粗野で無骨で荒々しく、まさに堤のハマリ役として賞賛を浴びた。

 先に話の内容も少し説明しておくなら、劇中でのジンギスカンは、モンゴル平野を駆け抜ける武将としてではなく、気鋭のファッションデザイナーとして舞台上に君臨することになる。彼はあらゆる人間に自分の仕立てた“制服”を着せることで世界を“征服”しようと試みていく。つまりひとかどのデザイナーになるための大いなる「野心」を全行動の原動力に、物語を牽引していくのだ。

 けれど妻夫木聡が主人公を演じた今回の『キル』は…、これまでとは全く異なる物語として読み取れてきた。私個人の意見を言わせてもらえれば、今回の『キル』は、「野心」ではなく「喪失感」から始まる物語であった。つまり妻夫木テムジンは野心に駆り立てられ世界を奔走するのではなく、自分のなかにある巨大な喪失感や空虚感を必死に埋めようとして、やみくもに前進していくのだ。

 なぜいきなりここで「喪失感」というキーワードが物語からあぶり出されてきたのか。もちろんそこには、テムジンを演じた役者の持つ性質の違いも、少なからず影響しているだろう。堤に比べ妻夫木は、声も体格も繊細で都会的。その性質が、テムジンの未成熟で傷つきやすい“少年性”を圧倒的に強く押し出していた。

 だがもしかするとそれ以上に、時代が、テムジンという男をそのように映し出してみせたのではないか。つまり2007年という現代が、初演や2演目の90年代には見えてこなかった、「喪失感」という新たな負の感情を与えたのでないか。