屋久島には、日本最南端の高層湿原が存在する。一般的に高層湿原は高山などで見られ、尾瀬ヶ原や霧ヶ峰の八島ヶ原湿原などがその代表だ。「高層」というと、高層ビルや高層マンションから連想するのか、高地にある湿原と勘違いされやすいが、そうではない。低温かつ過湿の環境下で発達する湿原で、こうした気候条件下では、枯死したミズゴケ類は分解されずに泥炭化し、多量に蓄積される。つまり、高い泥炭層を形成する湿原が高層湿原だ。
いわば寒冷地特有の自然体系で、温暖な地域では枯れた植物は分解されてしまうので、高層湿原は発達しない。ところが、屋久島は南国でありながら、それが存在する。標高1600m付近に広がる「花之江河(はなのえご)」や「小花之江河」がそれだ。南の島とはいえ、この付近の標高帯は、東北から北海道あたりの気候に相当する。冬はもちろん雪に覆われる場所だ。
7月も半ばのある日、さすがにもう梅雨明けだろうと思わせる、雲のない空が朝から広がった。久しぶりに山にも雲がかかっていない。絶好の登山日和だ。このチャンスに夏の湿原の風景を見に行こうと、久しぶりに山へ向かった。夏の観光シーズンもいよいよ幕開けといった様相で、淀川(よどごう)登山口は、色とりどりのザックを背負った多くの登山客で賑わっていた。
歩きはじめは勾配も少なく、山の朝の空気はひんやりと肌に心地いい。快調に歩くこと約40分。ひとつ目のポイント、淀川小屋に到着。そこから先は一気に勾配がキツくなる。カメラザックがズシリと体にのしかかり、どっと汗が噴き出す。次第に気温も上がってくると、山の上にもセミが鳴きはじめた。それまで涼やかだった山の空気も、セミの声とともに暑さが増す。「ギィー……」という思い切りのない低い声で鳴くのは「ヤクシマエゾゼミ」。屋久島の山地にしか見られない固有種だ。「えぞ」とは北海道の古称。「屋久島に生息する北海道の蝉」とは、単純ながら、屋久島の地形を物語る奥深い名前だ。森のあちらこちらに降りそそぐその声は、サーッと降る「時雨」というよりは、ポタポタと降る今にも止みそうな雨といった印象だ。
ヤクシマエゾゼミの鳴き渡る森の中を、淡々と登り続けること約1時間半。そこだけポッカリと森に穴が開いたような、こぢんまりとした湿原におどり出た。小花之江河だ。水を絶やすことのない青々とした森の中には、白骨化した屋久杉が点在し、森の主のごとく風格を漂わせている。まるで庭師が手を入れたかのような、荘厳な日本庭園を思わせる風景だ。木道の脇にある水たまりを覗き込んでみると、小さなオタマジャクシがウヨウヨと泳いでいた。これだけ多くのオタマジャクシがカエルになったら、どれほどの大合唱がこの山上の湿原で繰り広げられるのだろうか…。





