屋久島へ移り住んでからわずか2週間後、東京へ出張する機会があった。僕にとってはまだ、少し長い旅から帰る気分で、“逆出張”という感覚だった。クルマで何日間もかけて屋久島まで渡ってきたことを考えると、飛行機という乗り物を発明した“人類の執念”に、改めて敬服する思いだった。そんなことを考えている間に、羽田空港に到着。モノレールに乗り換え、浜松町へと向かう。窓の外に流れる、わずか2週間ぶりの変わらぬ風景に目をやる。が、違和感のある風景が僕の目に飛び込んできた。
川だ。「川が黒い…」。
東京にいたときは、いつも見ていたはずだ。しかし、それまでとは違う視点で、僕はそれを捉えていた。
誰もが屋久島へ来ると感嘆させられるのが、水だ。屋久島の川は清冽で、山の中では川の水がそのまま飲める。山を登るときは、小さなボトルがひとつあれば困ることはない。山の湧き水を汲んできては、コーヒーを淹れ、焼酎を割り、そして飯を炊く。
うまい。水ひとつでずいぶんと変わるものだ。
そして清らかな水は、目で見ても美しい。我が家の近くには安房川(あんぼうがわ)が流れている。買い物に出るときは必ず渡る川だ。その水の色は日によって違う。ブルーだったり、グリーンだったり、川底が見えるほどに透き通っていたり。この川でカヌーを浮かべると、まるで宙に浮いているような感覚に襲われるほどだ。

さすがに大雨の後は、土砂を含んで茶色に濁るが、決して黒に見えたことはない。わずか2週間しか見ていない屋久島の川の風景と、モノレールから見た東京の川の風景との間には、すでに大きなギャップが僕の中で生まれていた。
さらに息をのむほどに美しい川が、山の奥にある。標高1400メートルほどのところを流れる、淀川(よどごう)という清流だ(写真)。
急峻な地形の屋久島では、珍しいくらい穏やかで、水がどっちに向かって流れているのか分からないほどの川だ。驚くのはその水の色。まったくの無色なのだ。そこに水があるかどうかも分からないほどに、色が無い。陽の光が差し込むと、ぴたっと止まった鏡のような水面に光が反射して、辛うじてそこに水があることを認識できる。
そこに写りこむ木々や空や雲は、川底に見えている石や砂と同化し、その境が判別できない。自分が一瞬、何を見ているのか混乱してしまう。それほどに美しい川が、この島にはまだある。
その昔、どこの川もこの島の清流のように、色なんて無かったのだろうと思う。東京の川もそうだったのだろう。一体いつから色がつき始めたのだろうか。いつの日か、取り戻すことができるのだろうか。屋久島の川もいまや、少しずつ変化しつつあると聞く。この島の川の水が、いつまでも無垢のままであることを願う。





