政治外交の拠点として繁栄した大宰府政庁
北に玄界灘が広がる博多は古代から大陸、朝鮮半島との玄関口であり、古くは「那の津」と呼ばれていた。大和朝廷が外交軍事拠点としてこの地へ官家(みやけ)を置いたのが6世紀の中ごろ。以前、「味のみちくさ通り」の芋焼酎で紹介したように、白村江(はくすきのえ)の大戦に破れた朝廷は唐・新羅の来襲を恐れて、7世紀の中ごろ、那の津の官家を海沿いから内陸へと移転する。その場所が現在の太宰府市であり、奈良・平安時代を通じて九州の政治外交の中心となった大宰府政庁である。ちなみに地名としては「太宰府」、古代の役所を指す場合は「大宰府」と表記するのが慣例である。
大宰府政庁の役割は、九州諸国の行政を統括するとともに中国や朝鮮からの外交使節を接待し、さらに西国一帯を防衛するという大変に重要なものであり、それゆえに「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた。海を超えて訪れた使節を最初に迎える政庁は、日本の国威を表す場でもあり、当時の技術の粋を集めた都城が築造されていた。そのスケールは東西約119m、南北約215mという壮大なもの。瓦葺きの南門、中門、正殿、後殿、東西脇殿などの建物群がシンメトリーに配され、都と見まがうほどの威容を誇っていたという。南側の正面には朱雀(すざく)門が建ち、幅約35.6mの朱雀大路が長さ約2kmにわたって南へ伸び、両側には随・唐の都にならって碁盤の目のように整然と区画された条坊の町並みが連なっていたことが、数次の発掘調査によって明らかにされている。大宰府政庁が置かれた跡は現在、都府楼跡とも呼ばれ、国の特別史跡として整備されている。周辺には、日本最古の梵鐘(ぼんしょう)が国宝に指定されている観世音寺、唐・新羅の攻撃に備えて築かれた水城(みずき)跡など数々の史跡が残り、往時の様子をしのぶことができる。
太宰府という地名から真っ先に思い出されるのは菅原道真公だろう。九州配流の事情は、天神三丁目のヒレ酒で簡単に紹介したが、901年に大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された道真は、翌々年、失意のうちにこの地で亡くなる。すると京の都では、陰謀をめぐらした人々に次々と災いが降りかかり、御所さえも凶事に見舞われる。そこで道真の怨霊(おんりょう)を鎮めるため、その墓所に築造されたのが太宰府天満宮である。以来、学問の神様として広く民衆から敬愛され、近年では受験生をはじめ、全国から年間700万人もの観光客が訪れる名所となっている。
天神から西鉄大牟田線で「西鉄二日市」駅へ。ここで西鉄太宰府線に乗り換えると、次が「五条」駅、そして終点が「太宰府」駅である。駅前広場から東へ参道を歩くと太宰府天満宮、その奥には九州国立博物館がある。広場から南へ進めば、道は大きく西向きに曲がって観世音寺、大宰府政庁跡へと至るため、この道は「政庁通り」と呼ばれている。この界隈では宰府、連歌屋、観世音寺、朱雀など、歴史を感じさせる優雅な町名が散見され、閑静な街並みには古くからの町家が軒を連ねる。天神まで約15kmと至近の距離であり、ベッドタウンとして早くから注目されてマンションも林立しているが、数多くの大学・短大・高校の学舎が並ぶ落ち着いた文教エリアでもある。

太宰府天満宮へ向かう参道。両側には名物「梅ケ枝餅」を焼く店が並んでいる
政庁通りの「五条」交差点から南に折れると、すぐにY字の「五条駅入口」交差点。ここから左に進めば、先ほどの西鉄「五条」駅がある。そのY字の角、瓦屋根のひさしに白壁、格子造りの窓と扉が目を引く店がある。ひさしの上の大型電照看板には「酒魚菜 さかな 大ばけ小ばけ」と書かれている。その店名の不思議さにそそられて扉を開けてみた。すかさずネタケースの向こうから、「いらっしゃい!」と威勢のいい声がかかる。




