アップルが開催したWWDC2017の基調講演では、Siriを搭載したスマートスピーカー「HomePod」や10.5型液晶を搭載したiPad Proなどの新ハードウエアが発表され、大いに盛り上がった。だが、WWDCに参加した最高齢プログラマーとして、日本人の若宮正子さんが基調講演の冒頭で紹介されたこともサプライズだったといえる。82歳のシニアがiPhoneアプリの制作を手がける現役プログラマー、ということに驚かされた人も多いだろう。まさに「コンピューターおばあちゃん」と呼ぶにふさわしい若宮さんの日常や、アプリ制作までの道のりを取材した。
還暦を過ぎてパソコンを導入、自宅でパソコン教室も
若宮さんがパソコンを始めたのは、実に還暦を過ぎた60代。勤めていた会社を定年で退職したあと、自宅で母親の介護を始めることになったのがきっかけだ。若宮さんは、人と会って話をするのが大好きな性格なので、外出して友だちとおしゃべりできなくなったのが何よりつらかったという。孤独感を解消するツールとして目をつけたのがパソコンだった。Windows 95が登場する前でパソコンを使いこなすのは難しい時代だったが、書籍を買って独学で使い方をマスター。パソコン通信のチャットを利用して、友だちと大好きなおしゃべりを楽しんだそうだ。
パソコンの魅力に取りつかれた若宮さんは、独自のアイデアでパソコンを楽しく活用することに多くの時間を割くようになった。ユニークな活用法として注目できるのが、若宮さんが「パソコンを使った手芸」と呼ぶExcelアート。Excelのセルを色で塗りつぶしたり罫線の配置を工夫することで、日本の伝統的な文様をはじめ美しいグラフィックを描くという趣味だ。
現在は、自宅でパソコン教室を開いており、同世代のシニアの友だちと楽しくおしゃべりをしながらパソコンやスマホの楽しみ方を教えたり、IT関連の話題を取り上げて解説している。取材時は、悪意のあるサイトへ誘導する詐欺メールの見分け方や、偽のウイルスソフトの判別方法、世間を騒がせたランサムウエア「WannaCrypt」の概要など、高度な内容を分かりやすく解説。プロジェクターに投影する資料もすべて若宮さんが作成しているといい、とても82歳のおばあちゃんとは思えないIT関連の知識の高さに驚かされた。「若宮さんの教室を受講すると旦那や息子の話についていける」と、参加者からの評判も上々だった。
若宮さんからアプリ作りを頼まれたが、あえて自分で作らせた仕掛け人の狙い
そんな若宮さんに大きな変化をもたらしたのがプログラミングだ。81歳だった今年の2月、自身で制作したiPhone用アプリ「hinadan」(ひな壇)がアップルの審査を見事に通過。App Storeで公開されるやいなや、「81歳のおばあちゃんが作ったアプリ」として大きな話題を呼んだ。画面に現れるひな人形を正しい位置に配置するというシンプルな内容ながら、App Storeでのアプリの評価は大半が満点の星5つで占められている。
若宮さんが81歳にしてアプリを開発しようと思ったきっかけは、「シニアが楽しめるアプリがなかったから」と即答する。「若い人が好むゲームアプリは多いが、シニアには難しすぎて楽しめない」という不満を以前から感じており、それならばパソコンが得意な自分で作ろうと思ったという。
だが、若宮さんはHTMLを使ったWebページ制作の経験はあるものの、プログラミングの経験はまったくなかった。ゲームを作ると決めたとはいえ、どのような内容にするかも決められず、悩んでいたそう。そこに助っ人として現れたのが、東日本大震災のボランティア活動で知り合った小泉勝志郎氏。スマホアプリの開発やプログラミング教育を手がけるテセラクトの代表で、hinadanリリースの仕掛け人となったキーマンだ。
「シニアが若い人たちに勝てるゲームを作りたい」と訴える若宮さんと小泉氏が意見交換をした末に導き出したゲームの内容が「ひな祭り」だった。それを踏まえてhinadanのベースとなるゲームの仕様書を協力してまとめ、「この内容でゲームを作ってほしい」と小泉氏に依頼した。
職業柄、プログラミングは朝飯前の小泉氏だけに、自身が手がければすぐ形にできる。だが、「僕がプログラムを書くのはたやすいが、たとえ僕が作っても注目はされない。マーちゃん(若宮さん)がアプリを作ったとなれば絶対に話題になる!」と考え、若宮さん自身がプログラミングして開発することを薦めたのだった。
宮城の師匠とメッセンジャーでやり取りしながら半年ほどで完成
若宮さんがプログラミングをスタートしたのは2016年夏の終わり。神奈川県藤沢市に住む若宮さんと宮城県塩竈市を拠点にする小泉氏は、実際に顔を合わせる機会が限られていたものの、FacebookメッセンジャーやSkypeを使って相談をしながら日々アプリ開発を進めていった。小泉氏は「若宮さんはもともと英語が堪能だが、エラーメッセージなど分からないことは積極的にGoogle翻訳で調べる姿勢でいたのがプログラミングには有利だった」と述懐する。
3月3日のひな祭りに間に合わせるべく急ピッチで開発を進めていき、2017年2月下旬にhinadanのアプリは完成。App Storeにアプリを登録するための申請をしたあと、審査を経て掲載できるという通知が届いた際は飛び上がるほど喜んだそう。アプリのリリース後、ダウンロード数は3万を超え、アプリ紹介ページのPVも75万に達したという。若宮さんは「スマホを使ったことがなかったシニアがアプリを使ってくれたことが何よりうれしい。親子3代で楽しんだ、という声も寄せられた。海外からの反応も多く、日本のひな祭りの文化が海外に広められたのもよかった」と語る。
シニアが使いやすいようにhinadanのアプリで工夫したことは、人形の移動や配置にスワイプの操作を用いず、タップで選択→タップで配置という方法を用いたこと。「スワイプはスマホ独自の操作なので、うまくやれないシニアが多い。指先が乾燥しているので、スワイプがうまくいかないこともある。画面のタップという単純な操作ならば、シニアでも問題なくできる」と若宮さんは解説した。
自分で作ったアプリがiPhoneで動く感動を味わってほしい
若宮さんは「シニアでも若い人でも、ぜひプログラミングに挑戦してほしい。まずは簡単なものでよいから、自分で作ったアプリがiPhoneやiPadで動いた!という感動を味わってほしい」と語る。「もし失敗したとしても、時間やお金をちょっと失うだけ。誰も死んだりはしないので、どんどん失敗を繰り返して成長すればよい」と気さくに述べた。
「シニアプログラミングというジャンルを確立したい」というのが若宮さんの夢だ。「シニアには、ぜひプログラミングを老後の趣味としてやってもらいたい。近ごろ、エネルギーがたまったシニアが暴走老人と化すことがある。そのエネルギーをプログラミングにぶつければ、若い人に負けないよいものができるはず」とシニア層にアピールする。
hinadanに続くアプリをリリースする予定はあるか、との問いには「もちろんあります」と即答。「だけど、内容はまだ秘密です!」とはにかみながら詳細は教えてくれなかった。82歳のプログラマーは、しばらく現役で活躍し続けそうだ。
(文/磯 修=日経トレンディネット)