この記事は「nikkei BPnet」に2016年8月29日に掲載された「日本のAIは黎明期をどう歩んできたか」を転載したものです。内容は基本的に掲載日時点のものとなります。

 5歳の子どもの思考を通して「人間の知能」の素晴らしさについて語り合った中島氏と松原氏。二人の話題は、自分たちがAI研究の道に入った当初、どのように“知能の謎”に迫ろうとしていたのかに移ります。そこから始まる回想は「日本のAI研究史」にも重なる貴重な証言とも言えました。
左:東京大学特任教授の中島秀之氏、右:公立はこだて未来大学教授の松原仁氏
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(文・構成/佐保 圭、写真/涌井タダシ、協力/高柳 浩=公立はこだて未来大学 客員教授、撮影協力/日本ビジネスシステムズ)


日本のAI研究のパイオニア「AIUEO」

――おふたりが初めて出会ったのは、どのような場ですか?

中島: AIUEOでしょ?

松原: そう、AIUEOですね。

――アイウエオ?

松原: AIUEOは、1977年頃、中島さんたちが5人くらいで始めた私的なグループです。Artificial Intelligence Ultra Eccentric Organizationの頭字語をとって「AIUEO」。最初のAIを除いて、たぶん、「UEO」のところは後付けじゃないですか(笑)。

中島: あれを立ち上げた頃、AIを研究するグループはほかになかった。当然、名簿をつくったときにも、参考にする名前がなかったから、「じゃあ、AIUEOにしてしまえ」って(笑)。

松原: 1981年の2月か3月、私が理学部から工学部の大学院に進学したころ、そのAIUEOに入ったら中島先輩がいた……それが、ふたりの出会いです。

中島: AIUEOの最盛期には、メンバーが100人くらいいたけれど、松原さんは、まだ割とメンバーが少ない頃に入ってきた。

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中島秀之(なかしま・ひでゆき): 東京大学大学院情報理工学系研究科 先端人工知能学教育寄付講座特任教授、公立はこだて未来大学名誉学長。1952年、兵庫県生まれ。
1983年、東京大学大学院情報工学専門博士課程を修了後、同年、当時の人工知能研究で日本の最高峰だった電総研(通商産業省工業技術院電子技術総合研究所)に入所。協調アーキテクチャ計画室長、通信知能研究室長、情報科学部長、企画室長などを歴任。
2001年、産総研サイバーアシスト研究センター長。2004年、公立はこだて未来大学の学長となり、教育と後輩の育成、情報処理研究の方法論確立と社会応用に力を注ぐ。2016年3月、公立はこだて未来大学学長を退任後、同年6月、同大学の名誉学長に。