一方、中国の人々はと言えば、仮に同様の状況が発生したとしても、ほとんどの人は何とも思わない。カラになった皿を下げるのと同じで、何か特別の反応をすることはない。もし、たまたまエビをまだ食べたいと思っている人がいれば、「食べるから置いといて」と言うだろうし、そうでなければ何も言わない。

 中国の人たちはこの「残存エビチリ問題」を「量=現実的影響」の角度からとらえている。極端に収入が少ない人が、清水の舞台から飛び下りるつもりでこの料理を注文したといった特殊なケースを除けば、この2つのエビが自分たちに与える現実的影響はゼロに等しい。食べても食べなくても日常生活に何の支障もない、どうでもいい話である。持ち去られた2つのエビを巡って日本人が内心の葛藤を繰り広げているなどとは想像もつかない。

 皿を下げようとする服務員の側も、「食事も終盤、誰も食べずに残っているエビを下げても深刻な問題は発生しないに違いない。空いた皿はなるべく早く下げろと店長に言われているし、ここは皿を下げるのが合理的判断だ」と考えて皿を持っていく。

 要はお客も服務員も、考えているのは「問題の大きさ」であって、現実に影響がないことには関心を持たない。考えても意味がないからだ。「エビの所有権」などというスジ論は考える習慣を持っていないのである。

注意されたら「割り込み直す」

 「現実的判断」の観点から見ると、「割り込み」という行為に対する中国の人々の対応も興味深いものがある。

 中国社会でも、人が並んでいるのに横から割り込むのは当然、良くないことである。近年、都市部では行列に関するマナーは飛躍的に向上し、地下鉄の駅などでは整列乗車が普及し、降りる人が先、乗る人は後、といった作法が相当の程度、実行されるようになった。

 とはいえ各所で列に割り込む人はまだ少なからずいる。私が面白い現象だと思うのは、列に割り込む人が一定数存在する一方で、いわば被害者であるはずの「割り込まれる側」の人たちが、割り込みという行為に対して寛容であることだ。例えば車に乗っている時、渋滞の列に横から割り込まれてもほとんどの場合、淡々としている。怒りだす人はほとんどいない。

 この中国での「割り込む側」および「割り込まれる側」、双方の対応には、中国社会の「量」を基準にした現実的な考え方が色濃く反映している。

 先日、中国滞在歴の長い友人が教えてくれた話だが、ある時、彼が並んでいた列に1人の中国人が割り込んだ。彼が見とがめて注意すると、その人物はいったん列を離れ、私の友人の後ろに再び割り込み直したという。

 この話は「量=現実的影響」を基準にした判断の典型例だ。