中国で日系工場の人たちと話していると「中国の従業員は生産ラインにトラブルが発生した時の対応は目を見張るものがある。寄ってたかってなんとかしてしまう。だが、トラブルを発生させないための対策にはからっきし弱い」という声をしばしば聞く。これはまさに双方の社会の発想や行動様式の違いを端的に表した現象だと思う。

 理屈っぽい話をしてきたが、こういう「スジか、量か」という基本的な判断基準の違いは、現実社会のあらゆるところに影響している。やや大げさに言えば、国家や社会の成り立ちそのものを規定しているとさえ言ってもいい。

 例えば、中国では政府や企業などに対する住民たちの暴動や抗議行動が頻発していると日本では伝えられている。現実にどのくらいの数が発生しているかは別として、その種の行動は確かにある。しかし、それらはほとんどが時を経ずして収まってしまい、大きく広がることはまずない。それはなぜか。

中国の「暴動」はなぜ収束してしまうのか

 日本人は政府や企業の行為に対して憤る時、「こんなことはスジが通らない」「こんなことがあるべきではない」と憤る。だから日本社会の抗議行動は「カネが欲しいんじゃない。スジを通せ」という主張になりやすい。もちろん「スジの通させ方」の結果で金銭の支払いになることは多いのだが、主眼は「スジ」にある。だから自身の損得におかまいなく、いつまででも抗議を続ける人が多い。

 一方、中国の人々は何に憤るのかと言えば、主に「自分が受けた損害」に対して憤る。同じ「憤る」でも、この2つには大きな違いがある。

 例えば、近くの工場が汚水を不法に垂れ流した。その時に「社会的責任がある企業がそのような行いをするのはけしからん」と憤るよりは、「環境汚染でマンションの価値が下がった。損害をどうしてくれる」と憤る。つまり「スジ」ではなく、金銭的損害という「量」で憤るのである。

 中国でも、金銭的補償には「謝罪」というスジの話が同時に発生するので、「スジ」と「量」は両方あるのだが、主眼は損得のほうにある。だから中国の「暴動」や抗議活動は、だいたいはおカネで(表面的には)収まってしまう。「問題はカネじゃない。道理が通るまで30年でも50年でも頑張る」という「日本的抗議」をする人は、いないわけではないが、中国社会では「変わった人」である。必ずしも社会の共感を得られない。「そんなことにこだわって、人生浪費してどうするのよ。適当な補償金もらって楽しく暮らしたほうが頭いいでしょ」ということだ。

 割り切った言い方をしてしまえば、中国社会がさまざまな問題を抱えながらも、おおむね安定して推移しているのは、中国の人々の人生観の根底にこうした観念があるからだ。


 次回以降、この「スジか、量か」というフレームを活用して、さまざまな事象を考えていきたい。ご愛読をお願い申し上げます。

田中 信彦(たなか・のぶひこ)
 BHCC(Brighton Human Capital Consulting Co, Ltd. Beijing)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)、前リクルート ワークス研究所客員研究員。90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。リクルート中国プロジェクト、大手カジュアルウェアチェーン中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。