日本人の「相場観」からすれば、まず問題になるのは「そもそも通路とは何か」という「スジ」である。自分や他の通行人がその場所を「通れるか、通れないか」はほとんど関係がない。立ち話の一団が誰かの邪魔になっていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。「通路で立ち話をしている」段階で、すでにアウト、なのである。

 一方、歩道に立って立ち話に興じている中国人従業員たちの思考はそうではない。普通の中国人の頭の中にある判断のメカニズムは「量」を基準に回っているので、「いまこの通路で仲間と話をしたい」との欲求が頭をもたげてきた時、そこで行動に移すか、移さないかを判断する材料は

 「他の人が通れるか通れないか」
 「他人の通行に影響を与えているか、いないか」
 「影響を与えているとしたら、それはどの程度の影響か」

 ということである。つまり、自分たちがこの通路で立ち話をしたとして、他の人が支障なく通れるだけの通路の幅(=空間の量)が確保されているか、いないかにまず頭が行く。そうはいっても……と感じる方がたくさんいると思うので繰り返しておくが、これは「良い、悪い」の話ではない。言い方が妥当かどうかわからないが、“天然”に、天真爛漫にそういう見方をするのが社会の「お約束」なのである。

 この「スジ」と「量」がぶつかると、どうなるか。

 中国人側からすると、自分が「通れる」十分な幅(=量)があるのに、黙って通らずに異論を唱える田中さんの発想が理解できない。「え? あなた、ここを通りたいんでしょ。通れるよね? 通ってくださいよ。他に何か目的があるんですか?」という話である。

みんな「言うことが同じ」日本人、「違う」中国人

 こんどは日本人側の見方をしてみよう。「通路での立ち話」という状況を眼前に見た時、たいていの日本人は反射的に「そもそも通路とは何ぞや」という「原則論(スジ論)」がムクムクと頭をもたげてくる。それは、そうなるように子供の頃から躾けられているのだから。そういうクセがついていて、それができる人間が「優秀な人」であり、その発想ができない人は「出来が悪い」「しつけがなっていない」と、社会から判定される。

 一方、中国の人々は、同じく「通路での立ち話」を前にした時、「他の人が通れるか、通れないか」「どのくらいの現実的影響があるか」などなどの、「通路の幅」や「影響の大きさ」という「量」を判断する思考がムクムクと湧き上がってくるように育てられている(だから、人が「通れない」ような状態で立ち話をする人にはもちろん文句を言うし、中国社会でもマナーが悪い奴と判断される)。

 同様に、どの程度なら人に迷惑にならないかを適切に判断し、臨機応変な行動ができる人が中国社会の「優秀な人」である。

 さて、この結果として社会全体ではどうなるか。

 日本社会では、ある事象を前にした時、誰が判断しても結論は同じになる。「通路での立ち話」は日本人の誰が考えても、いつでも、どこでも、どんな状況下でも、そもそも「よくないこと」である。そこに判断のブレはない。

 しかし、中国の社会は「量」を判断する思考だから、通路にどのくらいの幅(=空間の量)があれば他人の通行に影響しないのか、各人の判断にはバラ付きが出る。「幅が1.5mぐらいないと人は落ち着いて通れないよね」と思う人もいれば、「いや、50㎝もあれば人は通れる」という人もいる。だから中国人は人によって判断が不揃いで、みな言うことが違う。ここに日本人は戸惑う。「規範というものがないのか、この国は?」である。

 かくて私も含む日本人は「中国の⼈が⾔うことはスジが通らない」「規律がない」と、ストレスを感じる。もともと「スジ」で判断する習慣を持たないのだからそれも当然で、このイラ立ちを多少なりとも解消するには「相手は“スジ”ではなく“量”で考えるんだ」という現実を理解しておくしかない。