「スジ」で考えるか、それとも「量」か

 と、大上段に振りかぶって始めたが、中身はできる限り具体的にしたい。中国人の判断基準や行動原理を、実例をもとに考えていきたいが、その際に私がフレームワークにしているのが、この連載のタイトルでもある「スジ」か「量」か、という切り口である。

 「スジ」で考える日本人
 「量」で考える中国人

 この枠組みで中国の社会や人々を見ることを、私は15年ほど前からあちこちの講演や企業での研修などでご紹介している。

 「スジ」とは何か。

 「そんな話はスジが通らない」「スジを通せ」などと言うように、「規則」「ルール」「道徳的規範」など、「こうするべき」という、いわば「べき論」のことと思ってもらえばいい。

 日本人、日本社会はこの「べき論」が好きで、とにかく「話にスジが通っているか」を重視する。逆に言うと、スジが通っていれば損得勘定は二の次、みたいな部分もある。

 一方、中国人的判断の基礎となる「量」とは何かと言えば、「これだけある」という「現実」である。「ない袖は振れない」という言葉が日本語にはあるが、現実に「袖」という物体がなければ、振りたくても振ることができない。いくら「袖を振るべきだ」とスジ論を言っても、まさに「ないものは振れない」のである。

 つまり、ここで言う「量」とは、「あるべきか、あるべきでないか」はともかくとして、「あるのか、ないのか」「どれだけあるのか」という現実を示している。

 中国人、中国社会が重視するのはこちらである。「あるべきか、どうか」の議論以前に、「現実にあるのか、ないのか」「どれだけあるのか」という「量」を重視する傾向が強い。

通路で立ち話をするのは悪いこと?

 具体的な例で考えた方が分かりやすいだろう。

 これは実際に中国の日系企業「あるある」の類の話なのだが、例えば、オフィスと社員食堂をつなぐ通路があったとする。昼休みの前後など、かなりの人がこの場所を通るので、通路の幅は結構広くて、余裕のあるつくりになっている。

 ある日、日本人赴任者の田中さん(仮名)がその通路を通りかかると、通路の真ん中に4~5人の中国人従業員が立ち止まって談笑している。話が盛り上がって、とても楽しそうだ。先に述べたように通路の幅はそれなりに広いので、この従業員たちが立ち話をしていても他の人は十分に通路を通ることができる。道をふさがれて通れない状況では全然ない。

 こういう場面があったとして、皆さんはどうお感じになるだろうか?

 田中さんの発想はこうである。

 「ったく、こいつら鬱陶しいなあ。通路ってえのは、そもそも通るためのところであって、立ち話をする場所じゃあねえんだ。通れればいいってもんじゃあねえんだよ」

 これが「べき論」発動の瞬間である。