そもそも中国の社会では、このようなケースでは「貸した」「借りた」という認識自体が発生しない。

 「お金ある?」
 「あるよ」
 「出して」
 「はいよ」

 それだけである。出した(出してもらった)瞬間にこの件は双方とも頭の中から消える。なぜかと言えば、先に説明したように、そのお金を出しても出さなくても、返しても返してもらわなくても、お互いにとって実質的な影響はゼロだからである。現実的な意味がないことにこだわって何になるのか!

 もし中国人に面と向かってそう言われたら、読者の皆さんはきっと「いや、理屈ではそうだけど……」と、なんとなく気持ち悪さ、自分の大事なものを否定されたような感じを受けるかもしれない。

 日本人が小銭を返すのは、ケチだからではない。この行為を通じて「私は社会規範を守る人間ですよ」「確かにそうですね」と、相互にスジを守る人間だと確認しているのである。そこをないがしろにされると、どうにも居心地の悪さを感じる。

 しかし、中国人には、小銭のやりとりをスジとして認識するという習慣がない。だから日本人の細かなお金のやり取りへの態度を見て「なんと四角四面でムダな対応なのか」と驚く。これは良い悪いではなく、要はそこがOSの違いなのである。

「量で決まる」ということ

 こういう話をすると「えっ、中国人は人に借りたお金を返さないの?」という反応をする人がいる。誤解のないように念を入れて説明しておく。

 中国の人たちの対応はあくまで「量」を基準に決まる――ということは、「必ず返す」わけではないが、「必ず返さない」わけでもない。ここが大事なポイントである。

 先の130円の例は、お互いにとってそのお金の「量」が、あってもなくても現実的な影響を及ぼさない程度だったから、その場で双方の視野から消えてしまうのであって、これが自分や相手に影響があるレベルの「量」であれば、当然、中国人はお金を返すし、返してくれと請求する。これは当たり前のことである。仮に、収入の低い人どうしが同じ状況に置かれたとしたら、両者にとって130円の持つ意味は大きくなるから、貸した人は覚えているだろうし、借りた人は返そうとするだろう。

 言い方を変えれば、人とお金のやり取りをする際、「金銭の貸借」と認識して返済(取り立て)すべき額なのか、渡した瞬間に記憶から消えてしまう「どうでもいい量のお金」であるのか、中国人は双方の持っているお金の量を慮りつつ臨機応変に判断している。「借りたものは返す(貸したものは取り返す)」というスジ論をどんな状況下でも守ることが正しいとは思っていない――ということだ。この「量」の判断がスムーズにできる人が、中国社会における「できる人」である。

 こうした判断基準の違いの結果、日本人と中国人のお金の使い方には大きな違いが出てくる。