なぜ日本人は130円を返すのか

 東京・大手町の大企業で部長を務める田中さん(仮名、58歳)は、ある日、昼休みに同僚とランチに行った。帰り道、自動販売機で飲み物を買おうとしたが、小銭の持ち合わせがない。同僚氏に「おい、ちょっと130円貸してくれよ」と言って飲み物を買い、仕事場に戻った。

 こういう状況があったとして、日本人である田中さんは小銭が手に入り次第、同僚氏に130円を返すだろう。同僚氏も返してくれることを前提にしているはずだ。もし田中さんが返し忘れたら、「あいつ、この間の130円どうしたかな。忘れちまったか。請求するのもなんだしな」と数日間は悩み続けるのが日本人である。

 これは日本社会では普通の話だ。で、そこで皆さんに考えていただきたいのだが、このような場面で同僚氏に借りた130円を返すのはなぜだろうか?

 何を言っているんだ、借りたものを返すのは当たり前だろう。理由も何もあるものか、返さないでどうする――という声が聞こえてきそうだが、まさにその通りで、ここにあるのは「借りたものは返す」というわれわれ日本人のスジであり、規範である。

 田中さんがこの130円を返すのは「返さないと同僚氏に経済的な損失を与える」からだろうか?
 同僚氏が130円の返済を期待しているのは「このお金がないと自分の生活に影響が出る」からだろうか? 

 そうではない。これはまさに「そうするべき」という規範の話であって、金額の大きさとか、誰が誰に借りたとか、そこは議論の対象ではない。「量」の話ではないのである。

小銭を「返す」ことの意味

 ではこの状況を「量」の観点から考えてみるとどうなるか。

 このケースでいう「量」とは130円、つまり金額の多寡である。「量」を基準に判断するとは、この両者にとって130円という「量」がどのような「現実的な意味」を持つか。それを考えることを意味する。

 田中さんは大手町の大企業の部長で58歳、相応の収入があるだろう。おそらく同僚氏もそれなりのポジションと思われる。この2人にとって「130円」は、現実的には、あってもなくても何ら影響がない「量」である。仮に財布の中から130円が減っても増えても、日々の暮らしに何の支障もない。増減に気が付きさえしないだろう。

 返しても返さなくても、実質的に影響がない量のお金を返す(返してもらう)ことに、何の意味があるのか。なぜそんなことをする必要があるのか。少なくともそこに本質的な重要性は見い出せない――。中国人はこのように考える。

 だから返そうともしないし、返してもらおうとも思わない。

 「量」(現実的影響)の大小を基準に物事を判断するとは、こういうことである。仮に中国人がこの「130円問題」を前にしたら、まずこのような観点で状況を認識する。「返すべきか否か」というスジ論から入るのではない。そういう思考の習慣がついている。