「どんなコンテンツが“良質”な作品となり得るか」について、一つの例を挙げて考えてみたい。

 最近、NHKでナレーションのない演出をウリにしたドキュメンタリー番組がよく作られているのをご存じだろうか。なぜ、あえて“ノーナレーション”を強調するのか? それは、これまで日本ではナレーションがある番組がほとんどだったからに他ならない。

 そもそも「ドキュメンタリーはナレーションありき」という前提は、日本特有のようだ。近年、海外コンクールで受賞する世界各国のドキュメンタリー番組を見ると、むしろナレーションがあるもののほうが少ない。その一方で、ここ十数年の間、日本のドキュメンタリー番組は海外で圧倒的な評価を受けたとは言い難い状況が続いている。「(ナレーションが多い)日本のドキュメンタリー番組は説明的だ」と指摘されているという。

 実際、映像を見ればわかるのに、「画をそのまま、なぞっただけの語り」や「出演者の感情まで、まるで当事者のように読み上げるナレーション」は珍しくない。「日本のドキュメンタリー番組は、情報は多いが心が揺さぶられない」といった指摘もある。隙間を埋めるようにナレーターがしゃべり続け、視聴者を理解させることに重きを置く番組も多い。

 どうして、日本の番組にはナレーションが多いのか? その理由は容易に想像がつく。

「ナレーションで説明したほうが丁寧でわかりやすい」
「ナレーションがないと画が持たない。チャンネルを変えられ、視聴率も取れない」

 そうした姿勢を突き詰めた結果、気がつけば世界で日本のドキュメンタリー番組は、“ガラパゴス化”していたのである。ここで、ふと素朴な疑問が浮かぶ。

「じゃあ、なぜ、他の国では“ノーナレーション”のドキュメンタリーが主流なのか? そのほうが国際的に作品のクオリティー(質)が高いと評価されるのは、なぜなのか?」

 現に他国のドキュメンタリストは、日本のテレビ制作者が「視聴者にウケない」と捉えているノーナレーションという手法をこぞって採用している。彼らはもちろん「不親切で、間延びしたドキュメンタリーでも構わない」などと割り切ってナレーション無しにしたわけではない。「必然的にノーナレーションという表現に行き着いた」と捉えるのが妥当だろう。では、なぜ彼らは“語らない”演出を選んだのか?

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