この記事は雑誌『日経おとなのOFF』2012年11月号に掲載した記事に一部手を加えたものです。内容は基本的に雑誌掲載当時のものです。

 水攻めの後、忍城には幕府の重役が配置され、江戸期の行田は10万石の城下町として栄えた。そのため、戦国時代の忍城にゆかりのある場所は、残念ながらほとんど残っていない。

 「ただ、家臣の一人、正木丹波守の菩提を祀った高源寺なら、忍城の兵士に思いをはせられるのでは」。鈴木さんの言葉に誘われて、忍城の東南角に当たる佐間口の戦場の跡地、高源寺を訪れた。

高源寺(佐間口古戦場跡)
忍城水攻めの際に、家臣の正木丹波守利英が守っていた東南門の佐間口。合戦の翌年、その近くに、丹波守が敵味方を問わず、戦死者の供養のために開基した。
【Data】埼玉県行田市佐間1-2-9 TEL:048・554・0042
戦死者を祀った慰霊碑を守ってきた
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山門の脇には、丹波守の墓がある。『のぼうの城』のヒット以来、墓を訪ねる参拝者が増えたという
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行田市郷土博物館
行田市の古代から現代までの歩みを紹介する忍城本丸跡の博物館。
【Data】埼玉県行田市本丸17-23 TEL:048・554・5911 開館時間:9時~16時30分(入館は16時まで) 料金:200円 定休日:月、第4金曜
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副館長の鈴木紀三雄さん。「戦国時代の最後を飾った忍城水攻めをさまざまな資料で検証することは、郷土意識の形成を知る手がかりになります」

 正木丹波守利英が、戦死者の霊を弔うために開基したこの寺には、彼らの慰霊碑がある。その碑に刻まれた「彼我」の文字。これは、戦いが終わってしまえば、敵味方の区別なく、戦いで命を落とした人すべてを弔っていきたいという意味を表しているのだという。誉れ高い難攻不落の称号の陰には、こうした人格者の存在があったのだ。謎多き水攻めの一端に触れ、感慨に包まれる。

 一方、ほんのわずかな軍勢の闘志と、沼地に囲まれた地形に阻まれた忍城水攻め以降、三成には“戦い下手”というレッテルが貼られた。皮肉にも、行田には、そんな三成の軌跡が幾つか残っている。

 その一つが、三成が築いた堤防の一部である石田堤。現在は、江戸時代に地元の名士によって建てられた碑がひっそりと立ち、花が手向けられている。水攻めを最後まで阻まれた秀吉、そして三成の歯ぎしりが聞こえてきそうな堤の跡は、行田市民の誇りでもある戦いの逸話と同様に、地元の市民によって守り継がれている。

石田堤
石田三成が水攻めの際に、城を取り囲むように築いたとされる堤の一部。全長14kmとも、28kmともいわれており、残された部分はごくわずかだが、水攻めが行われたことを示す貴重な遺構だ。
【Data】埼玉県行田市堤根1262
江戸時代に石田堤沿いに日光館林道が整備され、堤上に黒松が植えられた
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幕末、堤が次第に姿を消すのを憂い、行田・堤根村の名主が石田堤碑を建立
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