この記事は雑誌『日経おとなのOFF』2012年10月号に掲載した記事に一部手を加えたものです。内容は基本的に雑誌掲載当時のものです。

 陽光を受けて輝く黄緑色のブナの葉が、天空を覆う。周囲に聞こえるのは、囁(ささや)くような葉擦れの音のみ。森全体を深淵な静寂が支配する。しかし同時にそこには、濃密な生の気配も匂い立つ。世界でも最大級のブナの原生林、白神山地。8000年前から動植物の生態系がほとんど変わらない状態にあると、世界自然遺産に登録された。多様な生物を懐に抱く、母なる森だ。

じゅんさいはスイレン科の多年草で、ゼリーに包まれた若芽部分を食べる。アクがなく、生で口にできるのは旬の夏の季節だけ。じゅんさいは沼により味わいが違う。一つ一つ摘み取る笹本さんご夫妻
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白神山地の伏流水がミネラル豊かな食材を育む
秋田県のキャッチコピー「あきたびじょん」には秋田の地域資源の魅力を伝えたいという想いが込められている。白神山地はその代表だ。ブナの原生林が育む水は、硬度0.2mg/lと日本の湧水のなかでも超軟水で、素材の味わいを引き立てる。

 その白神山地の清冽な水の恩恵を受ける人がいる。人家もまばらな山麓。笹本忠雄さんはじゅんさい採りに励んでいた。じゅんさい沼の美観に、つい見とれる。沼に流れ込む湧水はどこまでも透明だ。

「じゅんさいの成分は、ほとんどが水。だからその質が何より大切になる。生活排水に汚染されていたり、水が滞留していたりすると、良質なものができないんです」。

 笹本さんが自らの棚田をじゅんさい沼へと変えたのは三十数年前のこと。減反政策が契機となった。しかし、その仕事は楽ではない。冬になると、笹本さんはブナ林へと分け入る。土を採取し、それを水の凍ったじゅんさい沼の上にまく。やがて春が訪れると氷が溶け、土は沼に沈む。豊饒な土がじゅんさいの栄養となるのだ。春から夏はひたすら雑草取りに追われるが、「除草剤も農薬も使わないから、しょうがない」と笹本さんは笑った。じゅんさいの生産量日本一を誇る秋田のなかでも、その沼は一線を画している。一般的には数年に一度植え替えをするが、笹本さんは栽培し始めた当初のまま。すべてはブナの土壌の恵みによる。

笹本さんのじゅんさいは、ゼラチン質が多いのが特徴だ
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じゅんさい生産者の笹本忠雄さん。82歳の今も妻の百合子さん(左)、嫁の春美さん(右)と一緒にじゅんさい沼で元気に働く。笑顔の絶えない優しいご家族だ
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じゅんさい
秋田では八峰町や南の三種町森岳地区が名産地として有名。以下、笹本さん生産のじゅんさいの入手先。

白神手づくり工房
【Data】秋田県能代市柳町4-28 TEL:0185・54・5405

食文化 うまいもんドットコム
URL:http://www.umai-mon.com/
※購入できるのは夏季が中心。


 その摘みたてのじゅんさいを、口にした。若芽のほんのりした苦み、ぷるんと透明なゼリーが口中で躍る。舌をひと滴の清流が洗うがごとく。それを噛み締めながら、自らの仕事を誇りに破顔一笑、無心に働く笹本さんの姿を思った。

文/鳥海美奈子、写真/GOTO AKI