上村雅之(敬称略、以下同)が率いる任天堂 製造本部 開発第二部が開発を進めたファミリーコンピュータ(ファミコン)は1983年7月に完成した。十字ボタンを備えるコントローラなど、ファミコンの仕様はその後のゲーム機に多大な影響を及ぼした。十字ボタンは、同社の携帯型ゲーム機のゲーム&ウォッチから受け継いだ。発売当初は伸び悩んだが、1984年に入ってから火がつき、国内だけで現在までに累計1000万台以上を出荷した。ファミコンはまさに家庭用ゲーム機の代名詞になった。

 ファミリーコンピュータ(ファミコン)本体の仕様検討は1982年10月ころに始まった。このときすでにLSIの仕様はほぼ確定し、機能の検証やソフト開発に使う試作機は出来上がっていた(図1)。さらにソフト開発ツールの準備も進んでいた。

図1 ファミコンの試作機の外観
 機能の検証やソフト開発を進めるために作った試作機。CPUと周辺回路を取り込んだモジュールと、画像処理回路モジュールから成る(画像クリックで拡大)

開発ツールは社内で準備

 機能を検証するための試作機はLSIの仕様が確定した時点で、リコーの技術者が回路図を描き、開発第二部のスタッフと共同で製作した。

 組み立てた試作機を使って、1970年代後半に発売した専用LSI搭載型ゲーム機の機能を再現してみた。プログラミングを担当した沢野貴夫(現、情報開発部情報第一課課長代理)は「これはいける」という感触を得たという。

 試作機の機能を確認できたところで、直ちにソフト開発ツールの準備に取りかかった。担当したメンバは沢野や大和聡(現、開発第二部課長代理)など、当時のソフト開発スタッフである。CPUとして選んだ米Rockwell社の6502用ツールは、国内にはなかった。当面は台湾メーカ製のICE(In-circuit emulator)を購入して急場をしのぎ、自前でプログラミング・ツール「NCAP(Nintendo-captureの略)」を開発することにした。NCAPのホスト・コンピュータはNECのPC-8001だった。野球や麻雀ゲームなど、初期のファミコン・ソフトはこのツールを使って開発された。

 プログラミング・ツールと同時に、画面で動くキャラクタを描くためのツールも作った。発光ダイオード(LED)で作った8×8のドット・マトリクスから成るディジタイザを開発リーダの上村雅之が作成し、ソフト開発スタッフに渡した。ディジタイザは、トレーシング・ペーパに図案を描き、それをドット画に変換するために使った。当時はまだコンピュータの画面上でゲーム・キャラクタを描くシステムはなかった。

 ディジタイザを使って描いたドット画データをそのままファイルとして出力できるソフトウエアも用意した。ただし、バグが思うように取れず、動作は不完全だったという。沢野が作業をようやく終えようとしたとき、大和が誤って電源を抜き、すべてやり直しになるといったトラブルもしばしば起こった。こうした試行錯誤のなかから、任天堂のソフト開発の管理体制が出来上がっていった。

 1983年春になると、ソフト開発に強力なスタッフが加わった。「6502の生きたマニュアル」と言われた加藤周平(現、開発第三部係長)である。