ほとんどのスーツは毛100%でできている。水で洗うとどうなるか。一部の特別な加工を施したもの以外は、しわくちゃになり、サイズが小さくなり、2度と着られなくなってしまう。このためドライクリーニングになる。透明なビニールのカバーに収められて戻ってきたスーツを取り出してみると、シンナーのような独特の香りが鼻をつき、生地から柔らかさが失われ風合いがなくなっている。スーツは洗たくに出さないほうがいいという友人のアドバイスを思い出す。

 ところが、伊勢丹新宿店メンズ館8階にあるウォータークリーニングは、どんなスーツでも水洗いできるのだという。筆者が所有しているスーツの大半は量販店のつるしだが、1着だけエトロを持っている。どうせなら、この一張羅で実験してみることにした。3年近く洗たくに出していないため、ところどころ女子高生の制服のようにてかっている。中身の若さでカバーできない分、なんだか不潔な感じだ。それでも“勝負服”が痛むことを恐れて、クリーニングしないできたのだ。

「逆です。洗っていないと繊維が痛むんですよ」と教えてくれたのは、ウォータークリーニングを展開するナチュラルクリーニングの鈴木三雄専務。かといってドライクリーニングでは、一緒に洗っている他のスーツから、汚れをもらってしまうことさえあるのだという。同社が開発した水洗いは、ミネラル分が少ない軟水を特殊な加工をして、繊維のキューティクルの開きを抑え、コーティングをしたかのように、生地本来の持つ味わいを取り戻せるのだとしている。理論的に正しいのかどうかは分からない。とにかく実践あるのみだ。

まずは伊勢丹の店頭で検品。スーツの寸法を細かくチェック。仕上がり時に縮まっていないかを確かめるためだ

 「いらっしゃいませ」。笑顔で迎えてくれたのはウォータークリーニングの廣瀬ゆかりさん。根が見栄張りなので、いかにもたくさんある中の1着のようにしてエトロを差し出す。考えてみれば、伊勢丹新宿店は高級スーツで溢れかえっており、筆者が所有しているものなど珍しくも何ともないのだろう。廣瀬さんは何のコメントを発することもなく、スーツを持ってきた袋から取り出すとあっさりとした様子で点検を始めた。「初めて水洗いクリーニングをするお客様には承諾書を書いてもらっています」と言いながら、1枚の書類を取り出す。要約すれば、きちんと洗えないばかりか、もしかすると縮んでしまう場合があるので、覚悟しておくようにというニュアンスだ。そんなことは聞いていない。急に不安な気持ちになる。たまたま臨時収入があったときに、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったものだけに、代わりのものがないのだ。「まあ、そういうときは仕方ないですよね」と余裕を見せながら、取材に同行したスタッフを横目で見る。すでにカメラは回っている。軽くべそをかきたい気分でサインをする。