日本のモノレールは政策が普及させた

 ところで日本でモノレールが増えた理由は、モノレールが本当に便利だからというだけではなかった。政府が1972年に都市モノレールの整備の促進に関する法律を制定して、モノレールが市街地の道路の上に非常に作りやすくしたのである。

 見る通り、この法律は非常にざっくりとしたもので、具体的な施策は行政に委ねられていた。そこで運輸省(当時)は、道路法で道路が「トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等道路と一体となつてその効用を全うする施設又は工作物及び道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものを含む」と定義されていることを利用して、モノレール線路を下の道路の付属物と見なすようにした。こうすると、道路整備関連の豊富な財源をモノレール建設に振り向けることが可能になる。

 この結果、1980年代半ばから、国の支援を受けて建設されたモノレール路線が日本各地で開業していった。1985年に小倉の北九州モノレール、1988年に千葉都市モノレール、1990年に大阪モノレール、1998年に多摩都市モノレールが開業といった具合である。しかし、その営業成績はあまり芳しくなく……どころではない、悲惨なものだった。北九州モノレールは2005年に、千葉都市モノレールは2006年に産業活力再生特別措置法に基づく救済処置を受けることとなり、多摩都市モノレールは2008年に東京都から追加出資を受けざるを得なかった。大阪モノレールも長らく赤字に苦しみ、単年度黒字となったのは開業から11年後の2001年度のことだった。

 原因は個々の路線でやや異なるが、根本にあったのは国のてこ入れがあったために収益性についての徹底した事前検討なしに路線建設が進められたことと、第三セクターに代表される経営責任が不明確な運営形態を採用したことが挙げられるだろう。

 それでも近年、路線が延びて利便性が向上したことと、沿線開発が進み乗客が増えたことで、これらの路線の経営状態は徐々に良くなってきつつはある(年次の決算を読んでいくと、北九州モノレールはまだ危うい感じだが)。

 ここまで、ざっとモノレールという乗り物の概要をまとめてみた。次回は、日本のモノレールの代表として、多摩都市モノレールと大阪モノレールを分析する。共に同じ日本跨座式を採用し、近年延伸計画が動き出しているという共通点があるが、路線を分析するとこの2つのモノレールはかなり違っているのだ。

(文/松浦 晋也=科学ジャーナリスト、ノンフィクション作家)

プロフィール

松浦 晋也(まつうら しんや)

 ノンフィクション・ライター/科学技術ジャーナリスト。宇宙作家クラブ会員。 1962年東京都出身。日経BP社の記者として、1988年~1992年に宇宙開発の取材に従事。その他メカニカル・エンジニアリング、パソコン、通信・放送分野などの取材経験を経た後フリーランスに。宇宙開発、情報・通信、科学技術などの分野で執筆活動を続けている。

 代表作は、日本初の火星探査機「のぞみ」の苦闘を追った「恐るべき旅路」(2005年朝日ソノラマ刊、現在は復刊ドットコム刊)。近著に「はやぶさ2の真実」(講談社現代新書:2014年11月刊)「小惑星探査機『はやぶさ2』の挑戦」(日経BP社:2014年12月刊)

 乗り物マニアで、折り畳み自転車4台にシクロクロス1台、ママチャリ1台、リカンベント2台、オートバイ2台と自動車1台を所有。パラグライダーで空を飛んでいたこともある。

 ブログ:松浦晋也のL/D、Twitter:@ShinyaMatsuura