今回のテーマ:先日、ジャンボジェットの愛称で知られたボーイング747が日本国内から姿を消した。空の大量輸送時代を切り開いた名機とされるジャンボジェットはどんな飛行機だったのだろうか?

 2014年3月31日、全日本空輸(全日空)が国内線で運用していた旅客機、ボーイング747-400(B747)、ジャンボジェットが最後のフライトを終えて引退した。日本航空ではすでに2009年7月にB747は引退しており、これで国内線におけるB747の運用は終了した。B747は、大量航空輸送時代の切り拓いた歴史的な名機だった。民間航空の歴史は、「B747以前」と「以後」に分けられると言ってもよいほど大きな存在だ。全ての民間航空史を振り返っても、B747に比肩しうるエポックメイキングな機体は、おそらくはあと一機種、近代的旅客機の形式を決めた名機「ダグラスDC-3」のみだろう。

主翼の下に4基のジェットエンジンを持つB747ジャンボジェット(写真提供:ANA)
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 ところが、実はB747はそうあるべく狙って生まれた旅客機ではなかった。ひとりの経営者の野望に、ボーイング社がやむなく応じざるを得なくなった結果として開発されたのである。

 ことの始まりは1950年代にまで遡る。

 第二次世界大戦終了後、軍用機で培った技術で多数の航空機メーカーが旅客機市場に参入した。折しもプロペラ機からジェット機への技術的大転換が起きていたこともあり、いずれ民間の旅客機もジェット機に切り替わることが予想されていた。先鞭を切ったのは、イギリスのデ・ハヴィランド社で、1951年に世界初のジェット旅客機「デ・ハヴィランドDH.106 コメット」を就航させた。

 ところがコメットは1954年に連続空中分解事故を起こしてしまう。事故原因は、当時はまだ未知の現象だった金属疲労にあった。小さな力でも繰り返しかかることで金属にひびが入り、やがて破壊する物理現象である。イギリスは徹底した事故調査を実施。デ・ハヴィランド社は1958年に、改良型のコメット4を就航させた。しかし、このコメットの市場における空白期間を突いて、アメリカの航空機メーカーが伸びてきていた。そこには、第二次世界大戦の前から大型旅客機で実績を積んでいたボーイング社の姿もあった。

 コメットが就航した頃、ジェット旅客機はどんな設計にすればいいのかまるで分かっていなかった。翼はどんな形がいいのか、どこにエンジンを積めばいいのか、誰も知らなかったのだ。コメットはゆるやかに後退した主翼の付け根に、ジェットエンジンを埋め込んでいた。

 その中で、ボーイング社は米空軍から請け負った爆撃機「B-47」を設計する過程で、コメットよりもずっと大きく後ろに反らせた翼の下に、ジェットエンジンをつり下げると空気抵抗が減って効率的であることに気がついた。

 ここで同社は賭けに出た。1954年に将来のジェット旅客機技術を試す試験機「ダッシュ80」を自社資金で製造し、徹底的な飛行試験を行ったのである。ダッシュ80から得られた知見を元に同社は、最初のジェット旅客機「ボーイング707」(B707)を開発。B707はライバルであるダグラス社の「ダグラスDC-8」と共に、ジェット旅客機を代表するベストセラー機となった。大きく反った後退翼の下にジェットエンジンをつり下げるという、現在に続くジェット旅客機設計の基本スタイルがこのときに確立したのである。