前回、「『祭り』が起こる原因は、あくまで祭られた側にある」という、当り前過ぎて書くのも気恥ずかくなるような事柄を記した。

 しかし、特に一般の個人が「祭り」で受けるダメージの大きさを考えた時、それを「自業自得」のひとことで切り捨ててしまっていいのだろうか? といった疑問も生じる。

 ということで、今回は「祭っている側」について触れてみたい。

「2ちゃんねらー」とは誰なのか?

 では、いったい「祭って」いるのは誰で、その目的は何なのか?

 一般的な了解として、「祭って」いるのは「2ちゃんねらー」ということになるだろう。この言葉自体は、すでに一般用語として定着している感があり、筆者も便宜的に使ってしまっている。

 では、「2ちゃんねらー」とは誰のことか? もしくは何を指すのか?

 「wikipedia」には、以下のように記されている。

1. 2ちゃんねるの常連ユーザー
2. 2ちゃんねるから生まれた独自の新語やAAを駆使する者をいう

 もう少し踏み込んだパプリックイメージとして付け加えておくなら、「ネットで暴れている匿名悪ノリ集団」といったニュアンスで使われることも多いだろう。

 しかし、第2回でも触れたように、いまや2ちゃんねるを利用しているのは種々雑多な一般(とは呼べない層も含んでいるだろうが…)の人々であって、何か共通した意図や目的を持った集団などではない。wikipediaの定義も、そのことを踏まえた結果だろう。

 実際、板やスレッドが違えば、まるで別世界のような温度差があるのが2ちゃんねるだ。とてもではないが一見さんにはおすすめできない、殺伐とした雰囲気の板やスレッドが多数あることは事実だが、まったりほのぼのな雰囲気を基本に進行している板やスレッドも数多く存在している。想像に過ぎないが、利用頻度の面ではディープな「2ちゃんねらー」でありながら、「祭り」に参加した経験はないという人もいるかもしれない。

 ある意味で象徴的なのは、第2回で触れた「D(ハンドル)」事件だ。Dは「2ちゃんねらー」だったからこそ、動物虐待の実況という最悪極まりない行為を2ちゃんねる上で行なった。しかし、その行為に激怒し、祭った人々も、また「2ちゃんねらー」である。

 当り前の話ばかりで我ながら厭になってくるが、2ちゃんねるは単なる「場所」もしくは「道具」でしかないのだから、本来「2ちゃんねらー」は「東京都民」や「○○線沿線住民」と同じ用法でしか使えない類の言葉のはずだ。

 何かと人騒がせな話の舞台になる機会が多いことと、それを報じるマスメディアの報道姿勢によって悪印象が先行している感があるが、万単位の人間が集まれば、その中に一定の割合で「ヘンな人」や「突出した行動に出る人」が含まれるのは当然の話である。

 あなたの住んでいるご町内や、所属している会社や学校の中にも「ヘンな人」や「ひねくれた人」、「調子に乗ってやりすぎる人」などなどがいるのではないかと思う。しかし、だからといってその点だけをフレームアップし、地域や組織全体を「ヘンな」呼ばわりされたら心外ではないだろうか。

 こうなると、もはや「2ちゃんねらー」という言葉は、つまるところ「世間」を指すとしか表現のしようがない。だとすれば、「祭って」いるのは「世間」ということになる。

 より正確を期すなら「世間の一部」もしくは「一部の世間」と表するべきだろうが、その「一部」がどの程度の割合なのかはまったく判断できない。

「祭り」の問題点とそこで生まれる「抑止力」

 さて、「祭り」に関して以前から指摘されている問題点を列挙してみよう。

・実質的に「集団リンチ」や「いじめ」ではないか?
・犯罪(的)行為の誇示が原因だとしても、応報を超えて過度のダメージが与えられがち
・法治国家である以上、「私刑」は許されない。犯罪(的)行為の誇示を発見したら当局へ通報すればいい
・個人情報、ましてや家族に関する情報までを晒すような行為は許されない
・匿名/集団で叩くのは卑怯。陰湿
・犯罪行為はともかく、思想信条や個人の心情の表現によって「祭られる」のは問題
・いったい何の権利があって「祭って」いるのか?
・単なる悪ノリ、嫌がらせ+数の力、マス・ヒステリー
・このような行動の行き着く先は衆愚政治である
・そもそも祭る必然がない。阿呆は放っておけばいい

 キリがないのでこのへんにしておこう。
 いずれも正論であり、基本的には「そうですね」と言うしかない。細部に反論できる余地はあると考えるが、別に筆者が反論する義理もない。

 また、そのような問題点が是正されるべきと考える人がいたとして、問題は、誰に向かって指摘し、どのような手段を持って是正するのか? ということだ。なにしろ相手は「世間」である。「一人一人がしっかり認識し、意識を向上させることが…」式のスローガンで何かが変わるのなら、誰も苦労はしない。

 では逆に、「祭り」がもたらすメリットというものはあるのだろうか? これについては、「祭られている」対象や理由によって話が異なってくると考える。

 企業や団体に対する「祭り」の場合、その原因が「言いがかり」的なものでない限り、ネット上で直接異議申し立てができる消費者運動、的な捉え方もできる。この場合、広く批判に晒されることで、企業や団体の運営、姿勢が改善される可能性はあるだろう。また、「ギコ猫商標出願事件」で祭られたタカラの場合など、その後に誠意ある対応を示したことで、かえって評価を高めたという声もある。

 「祭って」いる側がはたしてそのような意識を持っているかは疑問ながら、結果として社会全体に対するホイッスル・ブローワー的な役割を果たす効能があるのかもしれない。

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